人文社会科学部 社会経営課程 地域行動コース 白石壮一郎先生に聞く
白石 壮一郎
弘前大学 人文社会科学部 社会経営課程 講師
専 門 | 社会学、地域研究、人類学 |
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研究テーマ | 場所と共同性/公共性、移動と人生、 ルーラル・ツーリズム |
授 業 | 社会学A、社会行動論Aなど |
地域志向(愛着・コミットメント)【ルーブリックより】
- 多角的な地域理解に基づき、自覚的に地域に根を下ろして活動している
1.自覚的コミットメント—これからの「地域志向」とは—
———「地域志向」と言えば、例えば地域に対して愛着を持ち、様々な地域イベントに積極的に参加し、盛り上げ役をやったり、企画運営役をやったり、といった姿が浮かんできます。白石先生は、社会学,地域研究や人類学を修めてきた研究者として、地域志向という言葉をどのように捉えられますか?
白石:地域のイベント等を盛り上げることも地域志向の一つのあり方かも知れません。しかし、地域のイベントを盛り上げる力が、地域志向の本質かと言われると、そうではないように思います。
地域のことをよくわからないままでも、イベント運営の優れたノウハウを持っていれば、地域の祭を盛り上げることもできます。しかし、このようなアプローチでは、一時的に祭りを盛り上げることにはつながっても、結局のところ、地域の現状に対する深みのある理解や、中長期的に地域そのものを盛り立てて行く方策を考えることにはつながりにくい。
地域志向をもった人やその行為について具体像を考えるとき、興味深いコンセプトがあります。自覚的コミットメントです。ここで言うコミットメントは、その地域(あるいは組織,共同体,場)に深く入り込み、関わっていくことを指す言葉です。これに「自覚的」がつくと、単に地域に深く入り込むという意味に加えて、地域の歴史的な背景や文化、そこで暮らす人々の関わり方等を(そこに関わる自分自身も含めた)全体として捉える「一歩引いた眼」を持ちつつ、地域に関わっていくという姿を指す言葉になります。近年の文化人類学でも、現地社会に関わる態度としてこの自覚的コミットメントは話題になります。
———「一歩引いた眼」について、もう少し具体的に教えてもらえますか。
白石:例えば、地域行動コースの学生を県内の地域行事等につれて行くと、確かに地域の人々とそれなりにコミュニケーションをとって、行事に参加し、場合によっては企画運営に携われる。地域のAさんに「祭祀具を運んで欲しい」と言われれば、学生は「はい」と素直に言うことを聞く。けっこうみんなできるのですが、これがいきなりできるって、なかなかのものです。しかし、「なぜAさんは『祭祀具を運んで欲しい』と私に頼んだんだろう」と指示の背後にある意味や考え方についても最初から思いを馳せる学生は、通常多くありません。こうしたことに思いを馳せるようになる過程は、つまり、地域と関わりを持つさいに、自分にそのときどきで与えられた居場所をみつけたり、場の流れと他の人々の関わりのなかに自分を位置づけながら参加するといった自覚的コミットメントの一つの表れです。
ここでAさんの指示の意味についてしっかりと考えることで、言葉や行動の背後にある人々の願い、悩み、地域社会の人間関係等を紐解いていくヒントを得ることができます。「祭祀具を運んで欲しい」というのはシンプルな指示です。単に人手が足りないときに、お手伝いの若い学生がそこにいれば使う、ということはあるでしょう。が、その背後にある意味はそうシンプルではないかもしれない。仮に指示が発せられた場に、他の地域住民Bさん(男性)がいたとします。そうすると、なぜBさん—彼は地域の仲間ですから、本来なら頼みやすい人間のはずです―ではなく、他所から来た私に頼んだのか、という新たな問いが浮上します。この問に対する答えは、もしかしたら彼らの人間関係がこじれているからかもしれないし、この地域ではその祭祀具は女性が運ぶという文化的規範があるゆえに、女子学生にたのんだ(あるいは、学生はよそ者のお手伝いなのでこうした規範の「適用外」でその場の男子学生にたのんだ)のかも知れない。答えは色々ありえるのですが、いずれにせよ、「なぜ」という問いを持つことで、地域について深く理解するヒントを手にすることができる。このヒントは、地域で生きていくためにも、地域を活性化していくためにも重要な手がかりとなるはずです。自覚的コミットメントは、特別な技能がなくても経験があればできるようになると私は思っていますが、できる/できないの分かれ目は、参加しながらの注意深い観察力や、地域で生起しているものごとにたいするリスペクトなどが鍵になります。
2.自覚的コミットメントの文化人類学的背景
———つまり、自覚的コミットメントとは、地域のことをきちんと理解したうえで関わるということでしょうか。
白石:自覚的コミットメントは、地域を外から理解するだけでなく(大事ですが、それだけならばweb記事や本を読めばいいのです)、その理解を伴って地域に入り、さらに関わっていく過程で地域の「現場」への理解をすすめることをいいます。
ある地域で生きていくということは、その地域の歴史や文化、人々のことを理解することにはおさまりきらないものです。そもそも一人の人間が地域全体を見通すことはできっこない。「現場」の生活世界はそうしたさまざまな歴史・文化・知識・関係のるつぼ。どんなに長く住んでいても、地域の全てを知ることはできないし、地域の全てを好きになることもできない。中にはどうしてもわからない部分もあるし、どうしても好きになれない部分もあるでしょう。そういう理解を越えた部分についても、受け入れていく度量が生活世界を理解していくには必要です。
ここまで聞いてくださればわかるように、自覚的コミットメントは、地域の歴史や文化等を全てを理解し受け入れるべきだと主張するものではありません。一旦受け入れ、地域住民のひとりとしての目線に近づいたうえで、地域の活性化や振興、持続に取り組んでいく過程が残されている。そのような地域の変革の局面において、自覚的コミットメントが求める「一歩引いた眼」は重要な意味を持ってくるはずです。
———自覚的コミットメントは、単なる理解とは違うようですが、更には単なる地域振興や地域経済の活性化とも違うようです。
白石:違います。これらの違いは自覚的コミットメントが登場した背景を振り返るとよく分かります。文化人類学では「文化相対主義」という考えが重視されています。文化相対主義は、世界の様々な文化的差異を認め、理解し、それを尊重しようという考え方です。
文化相対主義という発想が登場する以前、我々は科学技術の発展や政治的な民主化等を安易に肯定し、そのような文明的な要素を持たない社会を「辺境」「未開」として低く評価することが多々ありました。これは「社会進化論」「自文化中心主義」と呼ばれる考え方です。
これらは、自国の歴史や文化を当然のものとして、それと異なる歴史や文化を「遅れ」「無知・非合理」という意味付けをして軽視する点で視野が狭い発想です。この点が問題視され、それぞれの歴史や文化を尊重する文化相対主義が登場しました。これは、他国や他民族に限らず、一般的に他者を理解するさいに重要な態度です。
しかし地域社会の現状を尊重するということは、しばしば「うちはうち、よそはよそ」式の他者化をもたらすことにもつながります。敬して遠ざけるという態度だけでは必ずしも深い理解にはつながらない。文化相対主義自体は正しい。だけど、この落とし穴には気をつけなければいけません。さきほど、「すべてを理解し受け入れろ、ではない」「一歩引いた目をもったうえでの理解と参加」と言ったことを思い出してください。
例題です。仮にある地域で、ときに死傷者を出すほどの危険をともなうお祭りが例年開催されているとします。我々からみれば、そうした危険な行事を開催すること自体がよく分からない。こうした場合、我々はそれを「尊重」してそのまま放置し続けるべきなのでしょうか。難しい問題です。このような場合には、その地域社会の歴史や文化を理解した上で、共に考える、何か新しい解決策を模索することも必要かもしれない。もちろん外から批判することだけでは、何も変わりませんが(そのお祭りも、そのお祭りを外からみる我々の目線も、です)、共に地域やお祭りに関わり、参加していく立場からなら、状況は少しずつ変わる可能性があります。このように現状を尊重し理解する態度、さらにそれを踏まえた地域や異文化への参加という、「関わり」に立脚した理解と行為が重要なのではないでしょうか。これが私の言う自覚的コミットメントです。(次ページへ続く)