理工学研究科(理工学部 地球環境防災学科) 葛西真寿先生に聞く
専門的な知識・技能【ルーブリックより】
- 専門知を体系的に理解し、その発展に貢献できる
1.専門的な知識・技能の習得は一朝一夕にはいかない
———葛西先生のご専門は相対論的宇宙論で、いわゆる理論物理学と言われる領域です。理論物理学は、非常に高度な体系性・抽象性を有した学問分野で、その全体を体系的に学ぶには多大な時間と労力が求められます。葛西先生からみて、だいたい何年生くらいの授業内容を理解できていれば「それなりに専門的な知識・技能を身につけている」と評価できるのでしょうか。
葛西:ドクター3年間を修了して、博士論文を書けるようであれば、それなりに専門的な知識・技能を身につけていると言っても良いでしょう。物理学分野では、自分が所属する研究分野の発展に知的に寄与することが、専門的な知識や技能の主眼です。なので、専門的な知識・技能を身につけたことの一番の証明は博士論文の完成ということになります。
もちろん早い時期に専門分野への知的な貢献に成功する場合もあります。例えば卒業論文が国際的な学会誌に掲載されることもあります。これは幸運なケースであって、ビギナーズラックとも言うべきなのかも知れません。しかし、この幸運を活かしてキャリアを形成し、大学教員として活躍している卒業生もいます。
———この話を聞いた学生は「専門的な知識や技能を身につけるのは、簡単ではないな」と身の引き締まる思いでしょう。ただ、今から大学で学び始める学生にとって、博士論文執筆はちょっと遠すぎる話になってしまうかも知れません。弘前大学のカリキュラムに即して言えば、専門教育は何年生くらいから始まるのでしょうか。
2.専門的な知識・技能の体系性
葛西:地球環境防災学科のカリキュラムでは、専門教育は二年生の段階から少しずつ始まり、三年生の後期から本格的に展開していきます。最初は講義中心で各分野の基礎的な知識を学びます。その後、演習や実験も始まり、体験的に専門的な知識を学びつつ、調査や実験の技能を身につけます。その後、ゼミでの卒論指導が始まると、いよいよ本番といった形です。
私のゼミでは、卒業論文のテーマは「宇宙に関する雑多な研究」というようなイメージで、専門性は必ずしも高くありません。ゼミ生の中にも、私の専門と必ずしも関係の深くない研究テーマを研究している学生がいます。ただし、大学院への進学を希望する場合には、卒論の段階である程度、進学後の専門的な研究を見越したテーマを選ぶように指導します。
専門教育以前の段階では、教養教育や物理学に関する一般的な素養、数学などを学ぶことになります。私が特に重要だと思うのは、数学です。
宇宙論について学ぶということは、これまでの宇宙論の展開を自分で追体験するということであり、これまでの宇宙論を一歩でも先に進めようと試行錯誤するということです。宇宙論に関する様々な知識は、ほとんどが数学を言語として記述されています。数学ができなければ、これまでの宇宙論を理解できませんし、これまでの蓄積がわからない状態で、宇宙論の未来を切り拓くことは不可能です。よって、数学がまずもって重要です。
このように、現実の課題と言うのは、表面的にはシンプルな課題に見えたとしても、その裏側に複雑な広がりを持っています。その複雑な広がりをしっかりと理解し読み解こうとするだけでも、かなり高度な専門性を求められます。
もう少し一般化して言えば、他の分野でも、当該分野の専門教育を進めるための基礎となる知識や技能があるはずです。学生はそのような基礎的な知識や技能を専門教育が始まる前からしっかりと身につけておく必要があります。
自分が本当に興味のある分野のことを深く学びたいのなら、基礎的な知識や技能をしっかりと身につけておくことが大事です。専門的な知識や技能は、高度な体系を持っているので、その一部を抜き取って学ぶようなことは出来ません。学問に王道なし、です。
3.探究心を育む
———あえて失礼な質問をしますが、それほどの苦労をして理論物理学を修めたとしても、なかなか卒業後の職業には結びつかないのではないでしょうか。葛西先生もこのような疑念を自分自身でお持ちになることはありますか。
葛西:そのような疑念を持つことは全くありません(笑)。ある時、私は自分の学生に教えられたことがあります。
その学生は工学系の大学から、宇宙論を学ぶために、我々の学科に編入してきた学生でした。工学は応用学問と呼ばれる学問領域に属しており、社会の役に立つような科学技術を生み出していくことに面白さがあります。宇宙論は、基礎学問とか純粋科学と言われる学問領域で、研究者個人の興味関心にしたがって、新しい知を切り開いていく分野です。何らかの科学技術を生み出したり、社会的な課題を解決したりすることはほぼありません。宇宙の謎を少しでも解き明かすことが目的です。
卒業後の進路などを考えれば、工学を修めたほうが良さそうですが、その学生は突如卒業の前になって宇宙論を学び始めました。そして就活の季節になると、他の学生に先駆けて就職先を決めてきました。しかも、おどろくべきことに、保険の営業の仕事に決めてきたというのです。
一見した所、この学生のやることには全く一貫性がありません。私は思わずその学生に「わざわざ宇宙論を学んだのに、なぜ保険の営業を選んだのか」と尋ねました。すると学生は「宇宙の勉強は大学でしか出来ません。私は自分の好きな宇宙についておもいっきり学びたくて編入しました。また、私は人と話すのが大好きです。だから人と話す仕事である保険の営業への就職を決めました。私はいつだって、その時に一番楽しいことを突き詰めていきたいと考えています。宇宙論も保険の営業も、この意味では私にとって同じ価値を持っています」と言うのです。
この学生は「大学で物理学を学んだので、就職先も物理学を活かせる職業に」などという近視眼的な発想を持っていません。非常に示唆的な学生でした。
好奇心を持って、新しい知識や技能を貪欲に吸収していく姿勢さえあれば、その場・その時に応じて必要な知識を身につけていくことができます。この探求する姿勢を養うことが大学の専門教育では大事なのではないでしょうか。学問によって好奇心を刺激されて、探究心を持って自ら学び、探究心を満たすような知的興奮を覚える。理論物理学を学ぶことで、この過程を非常に純粋な形で体験することが出来ます。この意味で、理論物理学はとても役に立つ学問だと言えるでしょう。
———実は、人文社会科学部の木村先生にヒアリングを行った際に、木村先生は教養教育において非常に重要な側面として、発見の興奮を体験することを指摘されていました。いままた専門教育の重要な側面として、探究心が浮かび上がっています。教養教育と専門教育を貫く大学教育の本質の一つは、発見の興奮や探究心のような「知るを楽しむ心」の涵養にあるのかもしれません。
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